京橋の「アーティゾン美術館」でちぃさんと過ごす楽しい午後の続き。
5階で開催されている企画展は、”Transformation越境から生まれるアート”。
第4章は、”東西を超越する-ザオ・ウーキー”。
絵画、美術史に疎い私の頭はルネッサンス、新古典主義、写実主義や印象派で止まっていて、ザオ・ウーキーなる画家は初見。
そこで、パンフレットの説明に少し書き足してアップ。
「第二次大戦直後の1948年にパリに移った中国出身の画家。クレー(第3章参照)の影響下に自らの様式を確立した後、同時代のフランスの抽象絵画やアメリカの抽象表現主義など、世界の様々な動向との接触を通してその造形言語を変化させていく姿は、洋の東西や国籍を超越した創作のありようを典型的に示している」。
ザオ・ウーキー、「無題(風景)」(1950年) 水彩、インク、鉛筆。
この絵を見て思ったのは、墨絵の抽象画。
ザオ・ウーキー、「海岸」(1950年) エッチング。
この絵についても同じ感想だが、エッチングなので線が鋭い。
ザオ・ウーキー、「無題(Sep.50)」(1950年)。
無題と言われると、何を表現しているのか想像力が自由に羽ばたく。
シュルレアリスム、抽象絵画を紹介し取り扱うギャルリー・ピエールと契約することにより、戦後のパリの抽象画壇を代表する画家たちと交流を深めていく。
ヴォルス、「無題」(1950年) グワッシュ、水彩、鉛筆。
ドイツ出身の多才な画家。
38歳で夭逝している。
アンフォルメル=非定型、形を持たない抽象画を確立した。
「アーティゾン美術館」には作品5点が収蔵されている。
マリア=エレネ・ヴィエラ・ダ・シルヴァ、「入口、1961」(1961年) グワッシュ、テンペラ。
ポルトガル出身の、フランス抽象画壇を代表する女流画家。
パウル・クレー、「庭の幻影」(1925年)。
クレーが総合造形学校バウハウスの教員をしていた時代の作品。
1951年、ザオはスイスでクレーの作品を観て魅了され、特にこの記号的表現はザオに抽象画に踏み出す手がかりを与えた。
しかしその影響の大きさ故に、そこから抜け出し自己の表現を確立するのに苦労することとなる。
ザオ・ウーキー、「水に沈んだ都市」(1954年)。
クレーの記号的表現の影響を残しながら、それを水に沈めることにより色彩に優位な地位を与え、クレー流の表現からの脱却を図った作品。
ザオ・ウーキー、「鳥の飛翔」(1954年) リトグラフ。
同じ年の作品だが、クレーの影響を強く残しているように感じる。
ザオはニューヨークに渡り、抽象表現主義の画家たちと交流。
その後の作風は、明らかに変わっている。
展示されている絵が随分と大きくなった。
ザオ・ウーキー、「15.01.61」(1961年)。
絵を観る者に先入観を与えないため、絵画に名前を付けるのを止め、制作年のみを記載するようになっている。
ザオ・ウーキー、「24.02.70」(1970年)。
ザオ・ウーキー、「10.06.75」(1975年)。
ザオ・ウーキー、「10.03.76」(1976年)。
ハンス・ホフマン、「プッシュ・アンド・プルⅡ」(1950年)。
ザオがニューヨークで交流した抽象表現主義の画家の一人。
ジャクソン・ポロック、「ナンバー 2、1951」(1951年)。
ニューヨークにおける抽象表現主義の旗手。
ザオの渡米の一年前に交通事故で亡くなっていて直接会うことは無かったが、ザオが影響を受けた画家の一人だ。
ヘレン・フランケンサーラー、「ファースト・ブリザード」(1957年)。
ニューヨーク生まれの抽象画家。
油彩なのに水彩のように見える彼女の技法は、”soak stain” techniqueと言われている。
ジョアン・ミッチェル、「ブルー・ミシガン」(1961年)。
彼女が子供時代にシカゴの自宅から眺めていたミシガン湖の記憶をもとに描いた作品。
マーク・トビー、「傷ついた潮流」(1957年) テンペラ。
アメリカの抽象画家の一人。
旅する画家として知られ、日本や中国にも滞在し、筆と墨の芸術、書の美に出会ったことが彼の作風に大きな影響を与えている。
パウル・クレー、「重さと軽さ」(1937年) テンペラ。
ジョアン・ミロ、「絵画」(1952年)。
ミロの絵は一目でそれとわかるところが素晴らしい。
ピエール・スーラージュ、「絵画 1969年5月26日」(1969年)。
”黒”を追求した作品で有名なフランスで人気の画家・彫刻家・版画家。
2019年に100歳の誕生日を前に、ルーブル美術館で回顧展が開催さてている。
存命中に回顧展が開かれたのは、シャガール、ピカソに続いて三人目。
アンリ・ミショー、「無題」(1979-81年) 墨。
ベルギー出身の詩人・画家。
早くからザオの才能を見出し、30年余の交流が続いた。
ザオ・ウーキー、「無題」(1980年) 墨。
ザオは中国出身ということで墨を使うことに慎重だった。
そのザオに墨で描くことを勧めたのは、自らも墨を用いていたアンリ・ミショーだった。
ザオ・ウーキー、「07.06.85」(1985年)。
第3章、第4章についてはあまりに知識が無く、鑑賞記にもならなかったが、これで企画展”Transformation 越境から生まれるアート”のご紹介は終了。
このあとは、”石橋財団コレクション選”が続きます。